正しいとか間違いとかの話。

 

ラソンに関する本を読んでる。

ラソンの走り方の本、

ストレッチの本、

走ってる人の本。

 

10月末が大会。

 

こういう走らなきゃいけない

読んどる場合かて時に

脇道に逸れてる(ように見えることをしてる)と

なんか頭の中で昔の友人が思い出されたりする。

 

そんな書き出しするくらいなら

単語の一つでも覚えたら⁇

 

自分が覚える予定の英単語を書き出すために

俯いててはたと顔を上げたら友人が

そう言ったのだ。

 

その頃の彼女は完璧主義者で完璧でみたいな

いろんな勉強に関するセオリーみたいなのが既に備わってたんだと思う。

 

それはそうかもしれないけど。

 

まぁ脇道に逸れて英単語ひとつふたつ

抜けたところでそれが自分の実力なので

余計なお世話というか、

逆にそんな世話を焼けるそんな人だったんだなと

自分が思うより人間味のある人だった

思い返したら思ってしまった。

 

本当に完璧に、あるいはその先に向かうなら

それこそ、他人の不勉強の指摘なんて

無駄の最たるところみたいな、

そんな気がする。

 

自分なんか勝手に捨て置いて先に進めばよいのだ。

 

ただなんか、その指摘された場面が

変に他の記憶と違ってしっかり記憶されてて

たとえば梅雨時の試験前の

土曜日、学校開放してる

なんかじめついたの日だったみたいな。

 

本当に来て勉強して欲しい人が

来なくて困ってるとか先生か親がぼやいてて

まぁなんか勉強するのに気が散るとか

そんなことのない日だ。

 

試験前の試験に向かって勉強してる時間は

なんとなく好きだった。

勉強するのも好きだったが、それを確認するのも好きだった。

 

 

さておき、

正しくはそんなことはするべきじゃない、

これこれは間違いなのでかくあるべきとか、

いろんな時と場合があるけど

個人レベルで言えば勝手にやるので

大丈夫ですとしか言いようがないような

 

それに、その人に合う方法が

自分自身に合うとは限らないしみたいな。

 

技術的なところを仕上げるのが

大事な時にランナーのエッセイを読むのは

非効率かもしれないけど

でもいまの自分には必要なことで

 

あるいは必要でないことがわかるために

必要な時間みたいな。

 

いろんな出来事に最後に

帳尻を合わさせられるのは

自分なので

あんまり意にそぐわないことは

したくないしできない。

 

 

自分にとってこの距離以降

息が上がるとか足が動かなくなるとか

そういうことに対して

もっと走ろうとか負荷をかけようみたいな

もっと続けようみたいなことが技術書には書いてある。

 

でもエッセイでは

 

長距離走ることってフィジカルとメンタル

割とメンタルの占める幅が大きくて

だから練習を重ねることは

練習をこれだけしたんだから大丈夫と思う余裕につながるとか

 

走ってる人の走ってる中での思いとか

考え方とかが書かれてる。

 

練習方法を書いている本ではそこまで書く必要はないから

書いてないんだと思うんだけど

 

それにエッセイではやっぱりフルマラソンとか

何度も出てる人でもつらいんだみたいな

当たり前(だけど忘れがち)なことを

思い出させてくれる。

 

練習の本にきつくてやめたい練習ですなんて書いたら走る人いなくなっちゃうから書かないんだと思う。

 

 

苦しい練習に耐えてる人だから

いろんなこと続けてる人は我慢強いんだと思うって武井さんが言ってた。

 

あわよくばその一人になりたいけど

朝からどうにも眠くて

本ばかり読んでる。

 

だめだにゃ、今日は猫になる日。

 

モチベーションは上がったし、

みたいな言い訳してる。

 

ただエッセイでも言い訳は

時間の無駄と書いてあった。

ははは、それも必要な時間。(言い訳)

 

 

そんな日。