ふるいにかける

自分も自分にしかないものを探していたことがあった。

でもそんなものはなかった。

探せば見つかるものではなかったのだ。

 

挑戦して篩にかけることが必要だったんだと思う。

筋トレもマラソンも、誰かより出来ているとかそういう類のものではないが

 

挑戦して篩にかけていくと

自分で思うより根性があるのかもとか

負けず嫌いなところがあるとか

 

それに付随してハーフマラソンに参加することで

なんだか疲れたような時でもあの時よりは辛くないかもしれないという気持ちになる。

 

自分は良いとかダメだとか、

頭の中で考えることも良いけれど

飛び込んで挑戦した先で

篩にかけて残ったものをなぞって

見るのも良いかもしれないなんて

 

秋の空に考えたりした。

 

君の横顔を思うによせて

前から見るも違う、

横から見るも違う、

ただぴたりとすれ違った時は違った。

 

まるでそのものだった。

 

前から見れば大きさが、

横から見れば体型が、

すれ違った時の横顔だけが

ただぴたりと君に似ていた。

 

わたしの方に向かって歩いては来たが

それは別の犬なので、

こちらに振り向きもせず歩いていった。

 

ただ、いっときすれ違っただけなのに

それはありありと君を思い出させた。

 

君はいつもぴたりとそばにいるので

写真にはあまり撮らなかった。

君はいつもぴたりとそばにいるので

料理をし、何かまな板から落とせばむしゃりと食べた。

君はいつもぴたりとそばにいるので

話しかければ耳や顔を傾けひたむきに聞いた。

 

君はいつもぴたりとそばにいるので

そばにいるのが当たり前だと思っていた。

 

なんだか夢のような、

ただたまたま道中を共にして

立ち止まり、そして駆けてぬけていった。

 

花に飾られた君、もうあたたかくない君、

もうもどらない君、まだこの先もずっといたかった君。

 

我々と暮らすことは、君にとって幸せだったろうか。

とことこと歩きわたしをおいて先へと

歩く後ろ姿、

もう違う君ではない犬だった。

 

たったひとりの君。

君の横顔を思うによせて

 

誇り高かったあの頃を取り戻す?

あの頃は良かった、その頃は

中学高校大学、文具屋パン屋コンビニ

どんな場所で再開できたなら

良かったと言える?

 

輝かしかったあの頃を掲げて

毎日泥を塗ってるような気がしたけれど

国宝級な絵画にですらトマトスープは

ぶちまけられるし

 

そもそも自分の昔はそんなに良かった絵だろうか。

お前なんか要らないと思うような日々もあった、

世間もそう思っているのではないかと思った。

 

清掃の人間の分はない、なんだかショックで

定期的に有る事無い事思い出されて

気分が荒んだり落ち込んだりする。

 

別に清掃の人間だからじゃないのかもしれない

30になるのにすぐへばって

フルタイムで働けなくて

それでも良いと良くないとを行ったり来たりする。

 

その歳で、その時間で、

生活できるのか。

出来ないし、いずれ両親はいなくなる。

 

立ち行かなくなった時にどうするのか。

わからない。

 

でも、自分以外には関係ないこと。

そうやって爪弾きにした先輩が

自分をどうにかしてくれるわけじゃなし。

 

淡々とこなすしかない。

辞めたい。

 

だけど、

口数は少なく

けれど営業時間には毎日飽きることなく

せっせと仕事をきちんとこなし

たまにペーパーを詰まらせたりする同僚との

仕事は嫌いじゃないので

ゆっくり続けたいと思ってる。

 

その店でいちばんの先輩で同僚は口答えしない。

すごく良いやつだと思う。

明日も磨いてきれいにしなくては。

 

夢の話。

自分の前を歩く父さんと癖毛の弟。

保育園くらいの頃だろうか、まだまだ小さい弟の手を引く父。

 

これは祖父母の家の近くのスーパーの近くの小道。

両脇の木々が2人を額のように飾ってた。

 

振り返ってわたしを待つ2人。

夏だ。自分は好きだったデニムのショートパンツを履いてた頃の夏。

足が太いのに出しててどうすると近所の

今はいないおばあさんに言われたパンツ。

それ以来なんだか見ないようにしてた事実を

客観的に指摘されたような気がして履けなくなったパンツ。

 

父さんがお昼美味しかったね、

みんなにもお土産に買って帰ろうかと

お店に電話して引き返してきたのだ。

 

幸福そうな2人の後ろ姿を見る

自分はなんだか遠いものを見る目だ。

そういえば父さんはよく食べ物を

お土産にしていた。

誰もお腹空いたと悲しむことのないように。

 

帰ってトイレから出ると妹が猫?に

粗相されてお気に入りの白一色ランシューズが

悲惨な目に遭ってた。

あの頃夏にしては妹は大きかった。

 

ランシューズと共に帰ってきて

ひと段落つこうと思っていたその刹那

猫?のようなものが粘度を持った謎の

黄色く透き通った松脂のような液体を

妹自身にも、お気に入りのシューズにも散らけて

当の本人は慌ただしく階段を駆け登っていった。

猫はそんな粗相はしないあの生き物はなんだったんだろう。

 

 

さておき、もう1人のおとなしい方の妹と共に父さんとバタバタとしていて

とりあえずそのシューズをトイレットペーパーで

拭くように言ったりとか

クリーニングに出すのかお金ちょうだい!と

口早に言ってた。

大事なものが失われかけるときの

怒りとか悲しみとか混乱とか涙と鼻水と

目のふちの赤みとか

そういうものがないまぜになってた。

 

昔よく見た泣き顔だ。

あの頃はよく泣いてた、いろんなものにむつかっていたようで。

 

鳥肉の甘辛煮弁当を父さんと弟とお土産に

帰ってくるまでの幸福そうな夢が

家に帰ってから変に速度を増して

変な悪夢みたいな

慌ただしく、そして不機嫌な感じに

埋め尽くされていった。

 

久しぶりに妹や家族といる夢を見た。

父さんはいつも優しい、

偏食が増えてなんだか食べるものとそうでないものとが増えたけど

いつまで一緒にいれるのかな

 

こんな夢見せないでほしい。

駆け足で引きちぎるように終わった夢。

みんな最後は慌ててた

 

こんな状態の、父さんと顔を合わせて話せば

父さんの病気のこと、自分のこれからのこと今のこと、嫌なことととも顔を合わせなきゃいけなくなる。

 

せっかくふたりで話してるっていうのに

名義を共同のものから母さんひとりのものに

変えるんだなんて言うから

何か、口に出すのも嫌な何かに

備えているから?とか

変な方向に働く思考が色んなものを呼び寄せて

何もかもが嫌だ。

 

犬もいて妹もいて、過ぎ去ったものが

過ぎ去らなかった夢を見せて欲しい。

 

月は嫌い窓からまぶしすぎる光で

目を覚まさせるから。

 

月は嫌い夜を照らすのには不十分なのに

影はより濃く描くから。

 

自分には癖毛の弟はいない。

あの人懐こそうな笑みの少年は誰だったんだろうか。

ふとすれば失ったものについて認知症の老人のように

忘れてはそうして、ありありと思い出させる。

 

海に浮かぶやわな小島、

普段は心地よく誰もいない孤島。

魚釣りをしながら日々1人で暮らしてる。

でも孤独ではない。穏やかだ。

 

過ぎ去った思い出と共に楽しく暮らしていて、

自分にはこんな素晴らしい人たちがいて

囲まれていたんだと、優しい日差しに包まれている。

それは過去でも輝かしかった過去だ。

 

ヤシの木にもたれては春風のような

常夏のようなほのかに蒸し暑い風の中で

目を瞑りねむる。

ひとりで暮らしているが孤独ではない。

そういう帰りたかった過去の思い出たちと暮らしている。

 

 

ただひとたび不意に嵐がやって来ると

波は容赦なく島にあるたった一本のヤシの木や

それにしがみつく私に幾度となく冷水を浴びせ

ふきすさぶ風は孤独な中

雨粒、細かくてももはやつぶてのような雨が

唯一の友の様な体温すら奪っていく。

 

寒いだとか吹き飛ばされそうだとか

そういう段になってやっと

ここには頼れる人はいないし

 

過ぎ去ってしまったものは

砂浜のきらめきのように

手からこぼるばかりで

なんの役にも立たないことを

突きつけてきたりする。

 

帰りたい過去!?今はどう?!

帰れないよ!

どこから帰れなくなった過去?

過去のどこからやり直せるならやり直したい?

現実、やり直せるのは現在だけだけど!!

そんな状態で大丈夫!?

綺麗な日々に泥を塗るだけの日々になんの意味がある!?

戸を叩くような、急いた雨粒と風が

乱暴にも問い詰めてくるようだ。

 

過去を思い出すなら木漏れ日の日が良い。

慌ただしい嵐の夜にはいやだ。

必死にヤシの木にしがみつく夜。

当分続きそうだ。

 

心落ち着かず忙しない、

先生の言う通りだ、

そんな夢を見るようになる前に

早く行くべきだった。

 

でもそんな夢を見る前にどうやって

不安の尻尾を掴めば良い?

彼らは不意に姿をあらわす。

 

出来ることならもう誰にも迷惑をかけなくてよくなることしたい。

でもそれは残った人々に同じ悲しみを負わせること。

 

振りかけなくいい悲しみなら

料理にかける最後の要らぬ隠し味のように

かけなくて済むならかけないままでおきたい。

 

そんな夜。

 

正気を取り戻すスイッチの話。

正気を取り戻すスイッチ?

 

先週は日に日に弱っていく愛犬が

虹の橋を渡って行って

1番彼の到着を望んでいたであろう

妹の元へ旅立っていった。

 

自分はショックで前後2週間、

わからないもっとかも

仕事を休んで恋人と気分を紛らわせたり

紛らわせられなかったりしていた。

 

来週からは行かなきゃって

ラソンの練習も兼ねて

夢の国まで走って来た。

 

3キロまでは見たことのある道

4キロ進んだらなんとなく地図で見た道。

5キロ進む頃には橋が入り乱れて

川沿いに進めば着くとかいう問題ではなくなっていた。

 

4キロから左足にまめの子どもみたいなのが

痛み始めて

新しい靴だと右足が痛むから

痛くない方ずつを履けば

完璧な靴になるのではないかと思ったりもした。

 

6キロ目は階段と道路とを走ったので

歩いてることの方が多くなった気がする。

7キロちらと見えた夢の国っぽい建物が

見えなくなった。

 

8キロそれっぽい橋を渡らないと

その建物の方へはいけないことがわかる。

 

ラソンやウォーキングを始めて気づいたことは

目に見えて大きい建物は思うより遠くにあること。

 

9キロもう走れないかもと思いながら

左右のまめが走ってここまで来たことを

教えてくれる。

歩いて来たら誰も返事なんてしてくれなかっただろう。

 

10キロ、夢の国のお姉さんがスタスタやって来たので

ビクビクしながらバス停の道を尋ねた。

 

キャストのお姉さんの優しさと

自分の中の緊張に恥入りながら

まだ走る気力が残っていたんだみたいな、

トコトコと小走りで進んだ。

 

ベンチに座ってお茶を飲むと

仮装した人々が列を成していた。

前を走る小さなミニーが時折こけて

手を地につけていた。

 

とても和やかな風景だった、

自分はここには入らないけど。

夢の国の雰囲気だけ感じて

舞浜の駅へ向かった。

 

1時間に数回しかないバスが

ちょうど出てしまって、

この文を打ってる。

 

正気を取り戻すスイッチもとい

足裏のまめがあまり反応していない。

みずぶくれみたいになって

破れてしまったのだろうか。

 

もう少し綺麗に道を走りたいが

なかなか難しそうだ。

 

そんな日。

 

正しいとか間違いとかの話。

 

ラソンに関する本を読んでる。

ラソンの走り方の本、

ストレッチの本、

走ってる人の本。

 

10月末が大会。

 

こういう走らなきゃいけない

読んどる場合かて時に

脇道に逸れてる(ように見えることをしてる)と

なんか頭の中で昔の友人が思い出されたりする。

 

そんな書き出しするくらいなら

単語の一つでも覚えたら⁇

 

自分が覚える予定の英単語を書き出すために

俯いててはたと顔を上げたら友人が

そう言ったのだ。

 

その頃の彼女は完璧主義者で完璧でみたいな

いろんな勉強に関するセオリーみたいなのが既に備わってたんだと思う。

 

それはそうかもしれないけど。

 

まぁ脇道に逸れて英単語ひとつふたつ

抜けたところでそれが自分の実力なので

余計なお世話というか、

逆にそんな世話を焼けるそんな人だったんだなと

自分が思うより人間味のある人だった

思い返したら思ってしまった。

 

本当に完璧に、あるいはその先に向かうなら

それこそ、他人の不勉強の指摘なんて

無駄の最たるところみたいな、

そんな気がする。

 

自分なんか勝手に捨て置いて先に進めばよいのだ。

 

ただなんか、その指摘された場面が

変に他の記憶と違ってしっかり記憶されてて

たとえば梅雨時の試験前の

土曜日、学校開放してる

なんかじめついたの日だったみたいな。

 

本当に来て勉強して欲しい人が

来なくて困ってるとか先生か親がぼやいてて

まぁなんか勉強するのに気が散るとか

そんなことのない日だ。

 

試験前の試験に向かって勉強してる時間は

なんとなく好きだった。

勉強するのも好きだったが、それを確認するのも好きだった。

 

 

さておき、

正しくはそんなことはするべきじゃない、

これこれは間違いなのでかくあるべきとか、

いろんな時と場合があるけど

個人レベルで言えば勝手にやるので

大丈夫ですとしか言いようがないような

 

それに、その人に合う方法が

自分自身に合うとは限らないしみたいな。

 

技術的なところを仕上げるのが

大事な時にランナーのエッセイを読むのは

非効率かもしれないけど

でもいまの自分には必要なことで

 

あるいは必要でないことがわかるために

必要な時間みたいな。

 

いろんな出来事に最後に

帳尻を合わさせられるのは

自分なので

あんまり意にそぐわないことは

したくないしできない。

 

 

自分にとってこの距離以降

息が上がるとか足が動かなくなるとか

そういうことに対して

もっと走ろうとか負荷をかけようみたいな

もっと続けようみたいなことが技術書には書いてある。

 

でもエッセイでは

 

長距離走ることってフィジカルとメンタル

割とメンタルの占める幅が大きくて

だから練習を重ねることは

練習をこれだけしたんだから大丈夫と思う余裕につながるとか

 

走ってる人の走ってる中での思いとか

考え方とかが書かれてる。

 

練習方法を書いている本ではそこまで書く必要はないから

書いてないんだと思うんだけど

 

それにエッセイではやっぱりフルマラソンとか

何度も出てる人でもつらいんだみたいな

当たり前(だけど忘れがち)なことを

思い出させてくれる。

 

練習の本にきつくてやめたい練習ですなんて書いたら走る人いなくなっちゃうから書かないんだと思う。

 

 

苦しい練習に耐えてる人だから

いろんなこと続けてる人は我慢強いんだと思うって武井さんが言ってた。

 

あわよくばその一人になりたいけど

朝からどうにも眠くて

本ばかり読んでる。

 

だめだにゃ、今日は猫になる日。

 

モチベーションは上がったし、

みたいな言い訳してる。

 

ただエッセイでも言い訳は

時間の無駄と書いてあった。

ははは、それも必要な時間。(言い訳)

 

 

そんな日。

映画を見る、遠くを見るのはなし。


もう朝から散々だった。

最近は悪夢をよく見たりするけれど

誰ともつかない人に腹部を滅多刺しに

される夢で目が覚めて


気分もあまり良くない中で

とりあえず仕事に行かねばと

午前中頑張ったがどうにも難しくて

早退した。


お前は愚図で鈍間で

おまけに見栄っ張りで

君がいてくれて良かったと言われたいが

為に空回りを続けてこんなザマだ。

みたいな不安がもくもくしていて

本当にだめだった。


明け方ムクムクと

もう本当にダメかもしれないとブツブツ言って

うつ病の人間は治りかけた頃に自殺する、

鬱がしんどい時はそもそも体力がなくて

出かけ始めたりとか体調が戻った頃が

危ないと先生が言っていたのを思い出したりした。


自分がした悲しみを誰かに負わせるわけには

いかないとこれまで生きてきたけれど

トイレ掃除の隙間に

もうあんたは死にたいもんだと思ってたと

母さんに言われてからしばらく経ったことに気づいた。


人の気もしれないで。


トイレを磨く、優しさにかまけて

自分は人に甘えすぎてる。

柱に縄かけて死ぬべし、思って遠くを見つめてしまった。


トイレに水をかける段になって

長靴に足を突っ込んだ時に蜘蛛がいたら

困ると毎回かかと部分を床に叩いているが

ゴキブリの死骸が引きずり出されて

芯からびっくりしてしまった。


たとえ死骸でも密室にいるのは心臓に悪いので

しばし外の花壇に放っておいた。

終わる頃にビニール袋にしまい、

動き出したら困るともうひと踏みしたが

あれは自分の来世かもしれんなんて

思ったら無下に扱ったことを後悔した。


店内の片付けをして

蛇口コーナーの鏡を拭き

早退さえすれば大丈夫だろうと

思ったら幾ばくか元気になった。


ただ帰る頃にはぶり返して

暑さと辛さに首がうな垂れ始めて

恋人の送るメッセージが度々届かなければ

路端で煮崩れていた気がする。


3時間弱あるこの世界の片隅に

少しだけ見た。

白波がうさぎに見えるシーンがとても良かった。


40歳になるまでに結婚するつもりがなければなんて言わなければよかった。


10年もいたら離れられなくなる。

今だってそう。

自分は明日死ぬかも分からんぞみたいな

精神状態でよく言えたもんだ。


不器用な人間には不器用な人間の良さがある。

面倒くさがりにはめんどくさがりの、


この状況で言えるのは

縄をかけるにはあまりにも不器用だし

縄を買うのも面倒くさい、そういう意味。


愚図で鈍間……

昼間に消えていた食欲が戻って

少しばかり安心した。



そんな日。